2019年9月18日水曜日

クランボルツの計画的偶発性について

いきなり、何を書いているんだと思われるようなタイトル。
曲がり間違って、これを探してきてしまった方がいらしたら、大変申し訳なく思います。先に謝ります。ごめんなさい。

先日、とある記事をみていたら、↑の説明がなされていて、あ、言われてみるとそうかもしれないけど、そういうこともあるんだなと感心したので、備忘録として書いてみようと思ったという次第です。

「計画的偶発性」とは、1999年に、ジョン・D・クランボルツ教授らが提案したキャリア論に関する考え方だそう。

個人のキャリアの8割は、予想しない偶発的なことによって決定される。その偶然を計画的に設計し、自分のキャリアをよいものにしていこうという考え方だそうです。
(Wikipediaによると)

つまり、あまりに未来ばかりに気を取られると現実が見えなくなってしまうという考え方でもあるようですが、確かに、そういう面はあると思います。

小さい時から何になるのと尋ねられ、まだ、心の中でOKが出ていないのに、○○と言葉を発してしまうと、自分なりに責任を取ろうと行動してしまうところがある気がします。
もちろん、しょっちゅう変わることもありだし、言ったことすら覚えていないケースも多々あると思うのですが、いろいろ考えていたところで、どうにもならないこともあるわけで。
いつも、遠くに目をやってばかりいても、目の前のこと、今を大事にできない気がするので(受験とかもね)、それはなるほどと強く思うところもあるのです。

ただ、なんでも楽な方に流されがちになるところもあるから、未来も今において決めることはしつつも、今と未来と、バランスをとれるほうがよしと思うところと、何かにむかって歩いていたときも、それにこだわりすぎず、今の呼びかけにも応じられる余裕もあってよいのかもしれないと思うところです。

私は立派な中年なので、キャリア形成という、甘美な響きよりも、目先の問題をこなしていくしかない部分はありますが・・・
それでも、その中で、どうやってビジネスを展開させていけばよいのか、考え始めると、頭がパンクしそうになることがあります(私は自営業者でもあります)

まあ、理詰めで考えてもらちがあかないときこそ、いつになるかははっきりしないけれど、そのタイミングがきたときは、迷わず乗るぞと決めること。
そして、いつでも乗れるよう、能力を向上させるよう、努めていくことは大切かもしれません。

もちろん、ぼーっと待っているだけではやってこないでしょうから、ある程度は、思うがまま、フットワークは軽くあったほうがよいと思いますが(^^;

何かについて、いつも悩んでいるつもりになっているのだけど、実際は、そこに逃げ込んでいるだけであったりもするかもしれません。

今に真摯に目を向けて、予想しない偶発的なことを楽しんでいける、素敵な大人であり、人生の旅人でありたいような気がする、今日この頃です。

2019年9月16日月曜日

続けていること



最近、文字を書かなくなったので、言葉が変わってきたことを感じています。簡単に、話し言葉に近い言葉ばかりを使うようになったり、死んだ言葉というか、新鮮な言葉を使わず、慣用句ばかりで済ませてみたり・・
うまく言えませんが、これではいけないと思う危機感すら感じています(汗)

ブログを書いたからといって、すぐ変化がでるわけではないでしょうが、仕事でも、私用でもなく、言葉をつづるということは、何か頭の中の何かを取り出すような作業に近いところがあって、自分でびっくりするような言葉を選んでいることもあって何かしら新鮮な作業な気がします。鮮度がいいかといわれると、すこし、鈍い気はしますが・・なんでも、すこしずつ、徐々にということも大事ではないかと最近思うところです。続けるという気合はなくても、やめないくらいでも、いいかなと。

ずっと続けていることは案外なくて、あきっぽいところもあるけれど、三日空けないでやってみるとか、一週間に一度はやるとか、ゆるいくらいの決め事は続いているほうだと思います。

最近でいえば、運動とか。

運動といえば、何か、誰かとやったり、どこかにいったりということを想定するとハードルが高すぎたため、散歩にいったり、動画でエクササイズをみたりという、ゆるゆるの運動をはじめました。最初は、筋肉痛になったり、いろいろありましたが、何より気持ちがすっきりするというか、ストレスに感じてたことをいったん、忘れてしまう(少なくとも、ストレスの度合いが薄まる感覚)ので、それが心地よくて、いままで続いてるところです。
2年近く、続いているのかな。

ヨガや、ストレッチも悪くなかったのですが(それらは、ずいぶん長くやってきた、今もやっていなくもない)なんというか、筋肉は一番たよりになるおしゃれだと思っていて、さっと体がうごく、うごくことが心地よいということは、ただ、いいものを身に着けるを上回るおしゃれではないかと思うのです。

なんだか、とりとめがなさすぎる内容になってしまいましたが・・・

一言でいえば、運動いいよ、ってこと(笑)

なにより、心が気持ちよくなる。その場では、そんなに思わなくても、あれ、運動した日は気持ちがよいなと気づいたので、やっぱりそういうことではないかと思います^^

とはいえ、いつまで続けられるかは、私自身もわかりませんが、ゆるゆるでも、やめずにいること。そのくらいの、気合で、やっていけたらよいなとおもいます。

2019年9月14日土曜日

ひさしぶりに・・・


かなりぶりに、ふと書いてみようと思って、ブログをあけてみました。

1年くらいたつと、それなりに何かニュースというか、イベントというか、あるものだと思いますが、
数年たつと、正確に時系列に並べて思い出せなくなっている始末。時の流れを感じるところです。

数年前くらいに、いろいろ意に沿わないことが多発する気がして、あれこれ付け焼刃的にもがいてみたものですが、結果として、何かこれをしたからよくなったことは、テクニック的なところではなく、もう開き直ったほうが効果的であったという気がします。

昔は、開き直るとか、他力本願みたいなことを聞くと、心のどこかで、自分のことは自分でやらねばと力が入っていたのかもしれませんが、自分の力でやることはやってもなお、どうにもならないこともあるわけで、そのときは、もうすんなり受け入れた方がいいのではないかと思うようになりました。
何かに対し、無抵抗でいることを意味するのではなく、ただ、事実を観察するというニュアンスに近いかもしれません。

そんなこんなで数年が経過したところ、何より、私自身がずいぶん楽になりました。何が変わったということであれば、周囲ではなく、おそらく私が変わったものだと思っています。

最近、いろいろな人がいて、いろいろなことを言われて、いろいろなことを言ってしまって、ま、そういうことの繰り返しだなと思うのですが、いろんな人がいていいし、自分と同じでなくても全然いいし、むしろ、そのほうが自然であって、その中で共感できる人とあえたり、すごくうれしいことがあったり、そういう宝物探しの毎日が、いとおしく思うくらいです。

もちろん、めちゃめちゃむっとすることもあります。そういうことは、なかなかゼロにはならないものかもしれません。

でも、むっとするくらい、心が動くことのほうに、目をやると、私の中で固執している考えに気づいたり、どこかで人を変えようと思っていたり、まあ、よからぬことを思っていることに気づかされるわけで・・・
必要があって、むっとするチャンスを、神様が与えてくださっているのだと、粛々と受け止めるしかないのかもしれないと思う、今日この頃です。

なんだか、まとまりがつかないだらけの投稿になりましたが・・・

体の中、心の中で、うごめいている、何かを取り出すような、そんな感じでの投稿になるかもしれませんが、ぼちぼち再開していきたいなと思っています。